ゲーミフィケーション 自己紹介

人生を「クソゲー」にしないために大切なこと

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人生つらい、仕事がつらい、みたいなことを言う人達がいる。
僕はその気持ちが結構わかったりする。僕もつらい時期があったからだ。
でも、簡単に「気持ちがわかる」なんて言ってはいけないんじゃないか、という気持ちもある。
つらさ、というのは人によって全然違うし、多分お互いになかなか分かり合える機会が多いわけではないからだ。
結局のところ、人生にしたって仕事にしたって、もちろん支えは必要だけれど、最終的には自分でなんとかしないといけないみたいなところがある。

ところが、人生やら仕事やらはちょっと気を抜くとすぐクソゲーになる。ほんとに、ちょっと気を抜いただけで、なる。

クソゲーって誰かが決めるもんじゃない

「クソゲー」というのはなにか。
「クソゲー」という名称の起源については諸説あると言われるが、みうらじゅんが最初に使ったと言われている。
いや、そんなことはどうでもよくて、クソゲーというのは一般的には、もう駄目すぎて駄目すぎて、どこかでやりたくない気持ちが出てきてしまうゲームのことを言うのだ(もちろん愛すべきクソゲーというのもあるけど)。

クソゲーと感じるかどうかは理屈じゃない。開発費を何億かけようが、いくらグラフィックが美麗だろうが、ストーリーに有名作家を起用しようが、大流行していようが。あなたがクソゲーだと思ったものはクソゲーだ。
だから、「仕事つまんない?どうして、仕事は面白いよ、考え方を変えてみようよ」「勉強が嫌なの?やってるうちに面白くなるよ」とか言われても困るし、そんなことは何遍も言われたけどできなかった。
あなたにとっての、僕にとってのクソゲーというのは、自分で良ゲーにしていくしか他にないのだ。だって感じ方が違うんだから。

ゲーミフィケーションはどこへ行ったのか

「ゲーミフィケーション」という言葉がある。
まあ、簡単に言ってしまえば、「ゲームには夢中になる仕組みがたくさんあるから、その夢中になる仕掛けや工夫をもっと現実世界に応用して、現実をもっと夢中にしようよ」というお話だ。2012年ぐらいに流行った(もっとも、そのブームは6回目ぐらいだと言われている)。
僕はかつてこの考え方そのものに夢中になった(そして今も夢中だ)。
僕はゲームがとても大好きだったが、まわりにはゲームを認めてくれるような大人たちはあまりいなかった。ゲームはいつものけものだった。ゲーミフィケーションという考え方が世に広まれば、ゲームがいいものだというふうに発想の転換をしてくれるのではないか、という期待を抱いている部分もあった。

しかしその幻想は淡くくじかれた。
なぜなら、一般的に優秀だと言われているビジネスマンの中はゲームをやらない人も多い。
ゲームを現実世界に役立たせるという話をするとき、最初の「マリオ」と「テトリス」の話ぐらいしか通じないというのは、結構難しい。

ゲームは、1980年代後半にファミコンが生まれてから、急速なスピードで進化してきた。
それはハードウェアの話だけではない。ソフトウェアだってそうだ。
如何に楽しませるか、如何に途中でやる気を失わないようにするか、etc。急速にそのノウハウを進化させてきたのだ。

30年もの長い年月をかけてゲームは進化してきたというのに、その初期も初期段階のゲームの話だけでは、まだゲームの夢中になる仕掛けについて語ることは難しい。
例えば、ゲームの仕組みだけではなくて、そのまわりにキャラクターとか、ストーリーとか、世界観とか、そういうのがあって、ゲームは遊びとしての質を深めていく。ファンのコミュニティみたいなものも、「あそび」の一種だと僕は思う。そういう夢中になる仕掛けは確かにマーケティングの一部だといえばそれまでかもしれないけど、ゲーム特有の、なんとも言えない蜜のようなあの惹きつけられる感じ、それが社会には足りないと何年か前の僕は感じたし、今でもそれは思っている(少しずつその状況は変わりつつあるが、それはまた別の機会に)。

ゲーミフィケーションのことを語る時、ゲームをやっていない人には「ゲームって面白いですよね」という前提知識を共有することすら難しかった。
そればかりか、当時のゲーミフィケーションというのは、「バッジやポイントを使って、報酬を与えることでやる気を促す」みたいな話ばっかりだった。

いや、大いに結構だけど、それって外発的報酬じゃないのか、という話だ。
外発的報酬というのは簡単に言えばお金とか報酬とか、外部から与えられる報酬だ。
逆に内発的報酬、内発的動機づけというのは、「一銭の得にもならなくたってそれが楽しいからやるんだ」、そういうモチベーションのことだ。

いいゲームって、一銭の得にもならなくたってやりたくてたまらなくなるもんなんじゃないのか。
そういう、一銭の得にもならなくたって何かをしたくなるような社会を、ゲームの工夫を使えば作れるんじゃないのか。

そんなことを胸にいだきながら色々トライしてみたのだが、当時の25歳ぐらいの僕には力量不足が否めなかった。
その結果、結局、「ゲームの面白さを知らないビジネスマン」と、「ゲームのノウハウを知っているクリエイター」とをかけ合わせ、巨大な化学反応を起こそうという僕の試みは、一旦挫折を迎えた。

そこで、僕が目指した次のステップは、「じゃあ、誰もがゲームを作れるような世界を作って、一人ひとりが『どうやったら楽しくなるのか』をもっと学んでいったらどうなるのだろう」という世界観だった。
フリーゲームやインディゲームのクリエイターさんをとにかくリスペクトして、応援したいと思って始めたこの試みは、今でも進行中だ。

だから、この試みは僕の中ではゲーミフィケーションの延長線上にある。ゲームの楽しさ、面白さをゲームの中で、コンテンツの中で閉じたものにするのではなく、もっとじわじわと現実を侵食させていきたいのだ。
よく、現実世界はゲームだ、ドラクエだ、という人がいるけど、実は僕はそれには反対だ。
そう思えない人もいる、というか、なんの工夫もしてない状況で現実はゲームだと思えるのは逆にちょっとヤバいでしょ。
現実はゲームじゃないんだから。現実世界がドラクエだなんて思えるのは相当ゲームデザインを自分の妄想の中で作り込める人なんですよ。それはそれですごいことだけど。

多くの人には現実は楽しいゲームじゃないのかもしれない。
もしあなたが今つらいなら、そのつらい現実はなぜ起こるのか、どうして楽しくないのか、ということは考えてみると絶対価値があると思う。
ゲームより現実のほうが圧倒的にグラフィックが良くて、サウンドも自由度も高くて、沢山のシステムに溢れている。
それなのに面白くない理由はなんなのか。

長くなったので、次回、この問題についてゲームをかたちづくる幾つかの要素をもとに、考えてみようと思う。

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